散歩中に熊本市の路地裏で発見した「日本最後の仇討ち報謝塔」

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熊本市内で日本最後の仇討ち?

朝晩の冷え込みが徐々に厳しくなってきましたが、晴れた日の日中は程よい気温です。メタボ気味の体重を減らすため、機会があれば路地裏をウオーキングしています。路地裏が好きなのは、大通りは車が多くて危ないというのもありますが、裏道を歩いていると、時に思わぬ面白いものにでくわすことがあるからです。

以前から前を通るたびに気になっていたのが、「日本最後の仇討ち報謝塔」という木の立て札です。場所は国道3号線の迎町から少し入ったところ。迎町という名前からして、「北上してきた薩摩街道が熊本城の城下町に入って来る」立地から命名されたのではと想像してしまいます。いかにも江戸時代には武士が歩いていそうです。

最後の仇討ち案内板

このあたりは、狭い路地と密集した住宅の感じから、戦前から人が住んでいた町並みだったと思われます。住所は弥生町で、熊本城から鹿児島へ向かう街道と、宮崎へ向かう街道がここからもう少し南に行ったあたりで分岐していました。

最後の仇討ち全景

サイトのネタにしようと、改めて木塔に書かれた説明文をしっかり読むと、ここで最後の仇討ちが行われたわけではなく、夫を殺された妻が仇討ちを実行するまでの10年間、祈願していた観音様があったということらしいのです。確かにGoogleマップでも観音堂が見つかりました。

報謝塔の本体もどうやら、さすがにこの木の塔ではなく、観音堂の方にあるようです。

説明文

仇討ちの舞台は玉名市石貫のうつろぎ谷

この場所に関連する仇討ちについて詳しく紹介した、岡田正二さんという方のサイトがありました。岡田さんは、昨年91歳で亡くなられた玉名市在住の画家で、郷土史家としても活躍されました。

事件は1861年、江戸の肥後藩邸で起きた藩士同士のトラブルがきっかけでした。下田平八、中津喜平が同僚の入佐唯衛門に殺害され、入佐は逃走。下田の妻・下田田鶴と当時9歳の息子・恒平、そして中津喜平の妻・寿乃たちは苦節10年、仇討ちの機会を待ちました。

1871(明治4)年、入佐は山口で捕らえられ、肥後藩まで身柄が移送されることになります。玉名市石貫あたりまで護送されて来たところで、田鶴と寿乃らが、護送役の石原運四郎らに無念を果たしたいと願い出ました。

義理に厚い運四郎は藩命に逆らって、籠から入佐を出して座らせ、下田恒平と中津寿乃に仇を討たせます。運四郎はすぐに結果を藩に報告しますが、おとがめは無かったということです。

1990年には、岡田正二さんたちが発起人となって、玉名市の現地に「日本最後の仇討ちの碑」を建立しています。

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「最後の仇討ち」には諸説あるようで

しかし、さらに調べてみると、最初の日本最後の仇討ち」という不思議なタイトルのブログを発見しました。歴史愛好家の方が書かれているようです。このブログによると、なんと日本最後の仇討ちは4つあるというではないですか。

時系列にすると

①文久3(1863)年6月2日、土佐藩。江戸に申し出て、いわゆる「あだうち免許状」を与えられた仇討ち。

②明治4(1871)年4月16日、肥後藩。事後承認で藩に許された仇討ち

③明治4(1871)年11月23、24日、金沢藩。仇討ち決行後、藩府により12人に切腹が仰せ付けられた

④明治13(1880)年12月17日、秋月藩。仇討ち決行後、裁判にかけられ終身禁固刑となったが後に釈放された。

ブログの主も「基準をどこに置くかで幾通りもの解釈が生まれる。そこが歴史の面白いところだ」と書かれています。熊本説では、③と④は仇討ち決行後に罰せられているので、正式な仇討ちではないという見方をしています。また、明治6年に政府によって仇討ち自体が禁止されるので、④はそもそも仇討ちではないという解釈もできます。

誰もが自分が住んでいる地域をひいきしたくなるもの。熊本の仇討ちを最後に認定したいところですが、「日本最後の仇討ちの一つ」という、ちょっと微妙な表現で落ち着きそうです。

江戸時代は、時代劇の「切り捨て御免」のイメージがあります。しかし実際には人を斬るというのは一大事だったのですね。


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