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先日の熊本日日新聞でも取り上げられた熊本市中央区の迎町交差点の話です。市内中心部を南北に貫く国道3号線が、街中心部から白川を長六橋を渡ってすぐの所にあり、通称産業道路と交わっています。3号線が交差しながら右カーブしている上に、五差路になっているため、過去に交通事故が頻発したこともあって「魔の交差点」と有り難くない名前でも呼ばれていました。最近は、道路の改修工事もあり以前よりは走りやすくなっています。
なぜ五差路になっているのか
問題は、なぜ五差路になっているかという点です。国道3号線と産業道路とは別に、そこそこの道幅がある道路が分岐しているのですが、わずか100メートルほどで”行き止まり”になっています。なぜ、こんな中途半端な道路が存在しているのでしょうか。県外から熊本に移住した、くまきゅー編集長の中野太助さんは、「熊本に来てすぐ、先が続いているのかと思って迷い込んでしまった」と話していました。
下の写真は長六橋側から見た交差点です。写真奥に向かって分岐しているのが、市道市道「迎町2丁目第4号線」。わずか100メートル進むと住宅地に突き当たってしまいます。
市道へ入っていくと、すぐに終点が見えてきます。手前の路面には変則的な分岐を示す道路標示があります。
市道の終点の向こうは駐車場になっています。
終点側から迎町交差点を望むとこんな感じです。まるでここから道路が始まっているようにも見えますね。せっかっく道幅があるから仕方ないのでしょうがしっかり片側2車線あります。
なぜ、このような道が造られたのでしょうか。実は、終戦直後の計画ではこの市道は、もっと先まで計画があったのです。昭和28年の熊本市の復刻地図には、迎町交差点から南熊本駅の南側あたりまで道路計画を示す点線の道路が書かれてあり、そこから東側に曲がって、電車通りの八丁馬場電停あたりまでつながっています。(地図上の赤い線)
ちなみにこの地図ではまだ白山通りも途中までしかできておらず、点線のままです。
現在は、電車通りの八丁馬場電停あたりから分岐している、いかにも作りかけのような中途半端な道路があります。戦後すぐの計画が予定通りに建設されていれば、ここが”出口”になるはずだったのです。
では、なぜこの迎町交差点からの100メートルが先に整備されたのか?実はそれなりの理由がありました。
由緒ある迎町と空襲
迎町は熊本市の中でも歴史が古い町並みで、元々は江戸時代初期に武家屋敷が不足したため白川を越えて移された「向町」でした。
当時は城下に入る唯一の通路が長六橋だったため、迎町は薩摩街道、御船街道などの起点と終点に当たり、人や馬で大変なにぎわいだったそうです。今でも、迎町一帯を散歩すると、古い町並みの名残のような細い路地が残っています。
「熊本市戦災復興誌」によると熊本市の戦後すぐの道路建設計画では、迎町交差点から住宅街の中を突っ切って萩原町まで行く予定でした。熊本市中心部は45年7月1日と8月10日の熊本大空襲で、市街地面積の30%が焼失してしまいました。迎町交差点一帯はその一部だったため、復興土地区画整理事業として整備されることになりました。空襲で焼け野原になっていたため、早々と道路も工事することができたのです。
現地を歩いてみれば分かりますが、建設予定地にはたくさんの住宅が建っています。ここをすべて用地買収するのはかなり大変な事業だったのではないでしょうか。戦後の経済発展の中、ますます造りにくくなっていったのだろうと推測されます。
五差路になりそこなった交差点
熊本市の復興都市計画では、五差路になるはずだった交差点がいくつかありました。白川にかかる泰平橋と世安交差点を結ぶ道路計画もあったようです。仮にこの計画が実現していれば、迎町交差点の南側の国道3号線の世安交差点も五差路になっていました。
また子飼橋の交差点から北上して3号線につなぐ幻のルートもあったようで、これが実現していればここも変則五差路になっていました。
計画が建てられた終戦直後は、こんなに自動車社会になるとは誰も想像できなかったのでしょうから、五差路を計画することもそんなにハードルが高くなかったのかもしれません。
もし、迎町から電車通りまで道路が開通していたらどんな街並みになっていただろうかと妄想を膨らませています。
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